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金昌国のプレトーク

ご好評をいただいております定期演奏会18:45〜のプレトーク。

当日の原稿をご覧ください。

​第132回 2019年9月10日 東京文化会館小ホール『ベートーヴェン』

皆さん今晩は!今日は、ベートーヴェンの夕べです。

プログラムについては、また詳しく書いて下さっています。よくご覧下さい。

 世間では、来年がBeethoven生誕250周年で、大騒ぎになる筈です。生誕の1770年は勿論、貴重な年ですが、交響曲第3番「英雄」が誕生した1804年も、私にとってはもう1つの大切な年です。後にBeethoven自身が言ったように、彼が書いた内で最も優れたシンフォニーであり、この曲の中である種の人間宣言をし、ロマン派音楽の世界を切り開いているように思えるからです。

ベートーヴェンがその2年前の1802年に自殺を図った事が気にかかります。28才の時に耳が聞こえなくなり、1802年32歳の時にウィーン郊外のハイリゲンシュタットの森で絶望し、自殺を考え、弟と甥に宛てた遺書を書いていますが、そこには絶望的な情況に苦悩している気持ちと、そこから雄々しく立ち上がろうとする姿が垣間見られます。この自殺を考えた時から「英雄」の完成までの2年間にどのような心境の変化が有ったのでしょうか?

私は1802年に戻ったつもりで、その202年後の2004年に、このハイリゲンゲンシュタットの森を訪れた事があります。私はこの時病後だったので、あまり奥の方まで行けませんでしたが、1802年作の2番のシンフォニーのクラリネットのソロを口ずさみながら、森の入口まで行ったものです。(ソー・ド―・レー・ミー・ミー・ソー・ファ・ミー・レー)実はこの時、この翌週から2週間ほどミュンヘンの国際コンクールに、審査委員の一人として呼んで頂いていました。病後だったので最後の機会だ、と思い、女房と一緒に参加させて頂く事にしていました。元ベルリンフィルハーモニー 首席のKarlheinz Zöller先生の最後に、立ち会えたのもこの時でした。オーケストラの中では堂々と、独奏の時には、渋く、音楽的に素晴らしいフル―ティストでいらっしゃいました。ウィーンには初めに2日間寄り道する事にし、巨匠たちの墓参りを中心に御上りさんになって、いろいろ、観光して回りました。ヨーロッパ滞在中の若い頃には、ウィーンには、仕事以外では行った事がありませんでしたので…。ハイリゲンシュタットの森に続いて、モーツアルトが埋葬されている筈の、ザンクト・マルクト墓地を訪れ,鬱蒼とした暗い森の中で、何処か正確には永遠に判らなくなってしまったお墓を探したりしました。

シューベルトは、遺言通りベートーヴェンの隣に埋葬されていました。1827年にベートーヴェンが、翌1828年にシューベルトが、市内の墓地に葬られました。その後1888年に彼らを中心に建設された郊外の、後ろ側のずらっと拡がりのある大変立派な中央墓地に埋葬されています。あまりに素晴らしい処で、感激した私は、女房を連れて、事務所を探しに行きました。「あのベートーヴェンとシューベルトのお墓の、ズーット後ろの方に、小さな墓地になりそうな空き地らしきものを見つけたのだが、あそこを買うにはどうしたら良いのだ。」事務所にいた人は、慌てて係の人を探してくれましたが、「係の人が今日明日が土日で居ないんだ。明後日、また来てくれ。」月曜日には、ミュンヘンに居なければならなかったので、断念しましたが、馬鹿な事をしたものです。ちょっと考えて見たら、ウィーンに、何の所縁もない音楽家を、墓に入れてくれる筈がありません。私の恩師の吉田雅夫先生が習ったウィーンフィル奏者の、レツニチェック先生は中央墓地に埋葬されたいるそうですが…。女房も女房です。馬鹿な事を考えたものです。ここに埋められれば、これで毎年ウィーンに来れる!とでも、思ったのでしょうか?「そんなに悪くもないかな…」と一緒に思ったりしておりました。

ベートーヴェンは人類で最も尊敬されるべき存在です。冗談っぽく茶化してはいけません。

若い頃は、ロマン・ロラン著書の、『ベートーヴェンの生涯』という伝記を読んだりして感激したものです。どれくらい尊敬されていたかというと、ベートーヴェンのお葬式には当時ウィーンの人口の20万人のうち、2万人が松明を持って参列したそうです。もちろんシューベルトもそれに並んでいたようです。

今日は、ヨーロッパから2人のゲスト、マーク・ゴト―二さんとフランク・フォルストさんをお迎えし、ベートーヴェンの若い頃から晩年までの作品を演奏致します。じっくりお楽しみ下さい。


 

​第131回 2019年7月16日 東京文化会館小ホール『J.S.バッハ』

皆さん、今晩は!本日の曲については、高市紀子さんが、詳しく書いて下さっています。プログラム冊子を良く読んで下さい。

前回はモーツアルトで、Eine Kleine Nacht Musikを我々が「アイネク」と呼び、関西ではアイクラと呼ぶと申し上げました。それを、舞台裏で聞いていた青山聖樹が、「関西と言うのは、関ヶ原の、西という意味だよね?」と。そんな事を、考えて見た事がなかった私は、一瞬たじろぎましたが、その後、「成程そうだ。1600年、天下分け目の関ヶ原の合戦だ。」…1600年といえばイギリス東インド会社が、続いてフランス東インド会社が、更に1602年オランダ東インド会社などが設立された頃でもありました。今日は話しがとんでもない処へ、ゆきそうです。オランダ・東インド会社については、また後でちょっと触れるかも知れません。

日本では徳川幕府が、オランダ人などを長崎の出島だけで出入りさせる鎖国をして行きます。この鎖国が、ペリー来航の幕末まで、およそ250年間続きます。徳川以前の、例えば織田信長はどうだったのでしょうか?信長が、チェンバロの音を聴いた事がある、という話をご存知でしょうか?安土城下のキリスト教会では、チェンバロが響いていたという話を、聞いた事があります。何にでも新鮮な気持ちを持っていた信長が、万一、天下を取っていたら、日本の文化史は違ったものに成ったのでは無いでしょうか?

さて、Bachですが、私の中学生時代の学校の音楽室にはBachの肖像画が貼ってあり、「音楽の父」と、教わりました。そのせいか何も知らなかった私は、Bachが相当古い人だと思っていました。だけど、信長どころか、家康とも較べられないくらい新しい人なんですね。徳川中期の8代将軍、吉宗になってはじめてBachとほぼ同じ歳になります。1685年生まれのBach、84年生まれの吉宗、1750年没のBach、51年没の吉宗です。吉宗は、TVでは、人気があるようですが…財政倹約をしたためか、文化的貢献はそれ程でもなかったようですね。オランダ語の習得を推奨したとは、いわれておりますが…。

吉宗の孫、10代将軍徳川家治は、東インド会社のオランダ商館長を謁見した事もあったようです。家治の時代はMozartの時代です。ここで、また私の「想像」が始まりそうです。オランダ東インド会社の社員、ド・ジャンとMozartの関係から、いろいろ想像をしました。しかし、本日のバッハプログラムとは、関係ないし、長くなると舌がもつれます。この話は残念ながら、カットします。いずれまたチャンスが、あれば致しましょう。

Bachに戻ります。Bachが吉宗に似ているのは、倹約家だったぐらいでしょうか?ある曲の下の隙間に、違う曲を書いているぐらい、紙を節約していますから…。これはしかし当時紙が大変高価だったことが理由でしょう。現代のコピー機で、我々が紙を浪費している姿を見ると、Bachは、気絶するかも知れません。

曲の使い廻しも多いといえるでしょう。本日の曲の中では、トリオソナタなどは、何の楽器で演奏しても良いのです。他の曲の、バスをほとんどそのまま再利用し、Bach自身か、周辺の誰かが、上のメロディ—を2つし、フルートと、ヴァイオリンに分けたりもしています。Bachの音楽の音の配列が、大変優れているため出来る事なのです。ただブランデンブルグ協奏曲第5番は、必然性をもって楽器の特定がされている、とはいえましょう。新しい大型のチェンバロの出来あがりを、Bachが大変喜んだようですので。

3台のチェンバロのための協奏曲は3台のヴァイオリンのための協奏曲として再構築された楽譜が、新バッハ全集から、出版されています。我々もその編成で、よく演奏しますが、今日は、ヴァイオリン、フルート、オーボエのソロで、より多彩に、演奏したいと思います。

今日は、Bachと、吉宗が、ほぼ同じ歳である事に、密かな喜びを感じている、お話しを致しました。

それでは、最初のオーボエとヴァイオリンのための協奏曲から、非常に多彩なJ.S.Bachの音楽をお楽しみ下さい。